師匠に関する新聞記事

ファンのご協力もあり、師匠の追悼関連の新聞記事を、手に入る分だけですが載せてみました。


 

4/20付 朝日新聞 朝刊

桂 枝雀さん 自由奔放、発想ユニーク  
  「より 楽しく」と苦闘 編集委員 上田文世

十九日亡くなった桂枝雀さんは、笑いの多い上方落語の笑いをさらにアップさせ、「枝雀落語」と呼ばれる世界を作った。その爆笑度、人気度は師の桂米朝さんをしのぐほどで、東西の落語界が受けた衝撃、損失は大きい。
座布団に足さえかかっておれば落語だとばかり、体全体を動かして自由奔放に演じた。手をひらひらさせる、眼を寄せるなどは序の口。くるっと体を半回転させたり、頭をガツンと床につけたりした。どくとくの抑揚があるしゃべり方も魅力があった。本題に入る前に語るマクラ噺もユニーク。アメーバのようなものから人間誕生までを語る「進化論」などで、マクラでさえ拍手がきた。
枝雀さんの目、物の見方、哲学が反映した登場人物にもひかれた。人間的な共感を覚えた。「宿がえ」の亭主は女房を口汚なくののしるが、言葉の中にぬくもりがあり、キツネを生け捕りにする「天神山」では生き物への慈しみがあった。聞いていて涙がわいてくることがあった。
落語を聞いていると、枝雀さん自身もほわーっとした人間に思えてきたが、本人はまじめがうえにもまじめだった。「自分の中に演者・枝雀と聞き手・枝雀がいる。この聞き手が、私の落語をなかなか良しとしない。」と語り、ひとつの噺を完成させたと思うと、また違うやり方で演じた。
子ども時代からそううつ傾向があり、枝雀襲名前の小米時代の後半には数ヶ月、「死ぬのが怖い病」にかかった。九七年初めごろから再び不調になり、同年四月の東京の会で「実はうつなんです。毎日違うように演じてたらバチがあたって、どうおしゃべりしてええんか分らんようになった」とはなし、休むことが多くなった。
だが、その間も枝雀さんは毎日のように練習していた。「より楽しい落語を」と苦闘を重ね、「うまくいかないわ」と苦悩するうち、ふと耳に届いた悪魔の声に、つい身をゆだねたのではなかろうか。
還暦を迎えた後の今年十月、持ちネタ六十を一日三席ずつ連続で演じる「枝雀六十番」の計画があり、演目の配分も終えていた。新境地を示すはずであった会が永遠に開かれなくなった。残念でならない。


同日付 朝日新聞 夕刊

「もうじき落語 完成させます」  
「桂枝雀さんを悼む」 編集委員 上田文世

「人間はなー、たき火囲んでマンモスの肉かじってたころも、笑い話を言い合ってたと思うよー。うまいこと、みなを笑わせるやつがおって、『おまえはもうマンモス狩りなんかせんでええ。その代わり、もっとおもろい話をわしらにしてくれ』と言われたりして・・・・・」
「このごろ新作がいくらでも出来るんですわ。これ『夢卵 』ちゅうんです。聞いてくれます?」
落語会が終わった飲み会の席で、自宅て帰るタクシーの中で・・・・・と、どんなに騒いでいても、枝雀さんとの会話はいつのまにか落語のことになっていた。
こんな高座姿を見た。一九九七年一月末のことだ。「夜中でもふと思いついたことがあったら、起きてネタを繰る(練習をする)。なんでこんなにまでやらんといかんのか。そう思うと、涙がでてくることがある」と話し、そのときに思いが至ったのか、舞台上でも涙を見せた。
明るい見通しも語ってくれた。不調を訴え始めるころより少し前の、九六年末のことだ。
「私の中に私を見てる枝雀がいてこれが私になかなかオーケーを出してくれなかったんです。それがこのごろはだいぶオーケーに近づいてきた。見ててください。もうじき自分の落語を完成させます。」
英語落語については五、六年前は「単語を並べてるだけ。英語で繰っていても、気を許すと日本語になってしまう。」九五年七月、イギリス遠征のころは「高座で次の言葉に詰まると、元へ戻ってやり直さないとあかん。もどかしい」。
それが最後の遠征になった九六年五月のアメリカ公演の前ごろでは、自信を見せていた。「日本語のときのように、お客さんと自在に一体になることはできませんが、だいぶその線に近づいてきました。」
気晴らしの散歩などをすすめる弟子に枝雀さんは、こう言っていたという。「落語さえうまくできたら、散歩でも何でもやりますよ。そっちがうまくいかんから、気晴らしする気にならんのですわ。」
枝雀さんの究極の高座姿は「出囃子が鳴って座布団に座る。なんにもしゃべらない。にこにこしてる。お客さんもにこにこしてる。三十分ほどそんなにしたら、太鼓が鳴って下りてくる」だった。
八月で還暦の六十歳。枝雀さんなら、そんな理想の高座が可能と思えていたのだが・・・・・・・。


4/22付 朝日新聞 夕刊

不器用に笑い求める
桂枝雀さんの思い出 米朝師匠が語る

もとから小柄な桂米朝さんが、いつもよりひと回り小さく見えた。十九日に桂枝雀さんが亡くなり、めったに口にしないコーヒーを無性に飲みたくなったという。「二十代のころから、落語論ばかり、ふっかけられた」という愛弟子の思い出を、米朝さんに語ってもらった。

入門当時の枝雀は、珍妙な表情とオーバーな話し方で演じるのが落語だと思っていた。「普通の話し方でだんだん面白くなっていくのが落語なんやで」と言ったら、目からうろこが落ちたと言っていました。
内弟子時代には、掃除機をかけながら夢中でネタ繰り(練習)をし、家中のガラスを割ってしまったことがあります。子守りを頼むと、乳母車を押しながらネタ繰りに没頭して、子どもが泣くと「やかましいっ」と怒鳴りつけるものだから、見かねた近所の人が注意したほど。家にあった初代春団治の落語レコードを聞いて、ひとりでげらげら笑っていることもあった。頭がいいので「面白さ」の理解が早い。ネタも二、三回教えるとすぐ覚える。内弟子は二年で卒業させました。

とことん落語討論

入門から五、六年もすると「落語というものを悟りました」と言ってくるようになりました。東京落語でサゲ(オチ)の分類をしたものがあるが、あれは非科学的でいい加減です、私のは心理学的にきっちり分類できます、と言う。「じゃこれはどうだ」とたずねると「あーそれは・・・・・」と言葉に詰まり、「もういっぺん、考えてみます。」と帰っていく。と、夜中に突然電話してきて「今から行ってもよろしか。一つ、悟りをひらきました」。
こちらもまだ四十代だし、落語について討論できる相手は他にいなかったので、とことん付き合いました。「笑いは緊張の緩和です」と言うから「そらそうやろな」と答えると、必要以上に緊張させる落語をする。あちこちで仕掛けるものだから「聞いてる方はしんどいぞ」と言って聞かせたものです。
何をやるにも極端なので、ずっと危うさは感じていました。マクラ(話の導入部)がどんどん長くなるので、注意すると次ぎからピタッとマクラ自体をやめてしまう。落語では筋を説明する「ダレ場」が前半に必ず入るものですが、枝雀はそれが嫌で、前半部をぽーんと飛ばして「ほたらナニかい・・・・」と入り、説明をぐっとはしょるスタイルを考案した。どのネタにもこれを使うものだから、「何でお前はそう極端なのか。今の枝雀を聞きにくる人は、ダレ場も聞いてくれるよ」と言うのに、笑いが二分でも途切れるのが辛抱できないんですな。もっと自分の落語に自信を持ってやってくれればよかったんですが。人生の処し方全般に不器用だった。

高みをめざし続け

客も楽しませるが、自分も楽しみたい落語だった。そのまま続けても客は大喜びしたでしょうが、本人が納得しない。この数年は閉そく感があったでしょう。うけにこだわり続けると、年を経ても枯れようがない。長生きしたとしても、この型から脱皮し、淡々と語って自分が楽しめればいいというタイプの噺家になれたかは疑問です。
話芸に到達点などありません。その日その場所にきたお客さんと演者がつくる一回きりの「最高」で、二度と同じ物はできない。枝雀はある線に達し、それを越え、また自分を引き戻し、また越え・・・・・・・とやっているうちにうつ状態になってしまったのかもしれません。
枝雀がいなくなって、私は荷物が重くなった。ぼつぼつ楽しようと、仕事の半分ぐらいを任せかけていた時だったのに。もう私なんか、ムチ打ってもあきまへんわな。なのに、そうもいかなくなってしまいました。 (談)


4月22日付 毎日新聞 朝刊

桂枝雀さんを悼む
究極の芸 求め続けた

落語界に大きな功績を残して19日、59歳の生涯を閉じた上方落語家、桂枝雀さん。ユニークな風ぼう、大きな身ぶりと豊かな表情の高座は、幅広い落語ファンを開拓し、落語の可能性を大きく広げた。飽くことなく芸を追求した枝雀さんの足跡をたどった。【勝田 友巳】

「趣味は落語」。枝雀さんは生前こう言ってはばからなかった。高校時代から桂米朝さんに実質的に弟子入り。1年間通った神戸大は「大学がどんなとこか大体分りました」とあっさりやめた。以来、落語一筋。
古典落語の常道を越えた大きな身ぶり、SFのショート・ショートをもじってSR(ショート落語)と名付けた実験的な短い落語、英訳。異端と評されることもあったが、作家の藤本義一さんはそうではなかった、と言う。「(枝雀さんの)芸は多様に見えても多様でない。何か一つのことを突き詰めようとしていたように見えた。」と話す。
18歳で桂小米時代の枝雀さんに弟子入りした桂南光さんも「オーバーアクションといわれるのは(弟子としては)心外。抑えるところは抑えた上で、全部理屈の上でやっているんです。」と強調する。
人気と評価に安住せず、枝雀さんはなお、高みに挑み続けた。南光さんは「僕らはちょっと受けると『それでいい』となるが、師匠は『もっと受けるはずだ』とその先を考えた」と振り返る。その姿勢が高じてか、ここ数年、持病の鬱が悪化し「高座に立てない」と悩む状態が続いていた。米朝さんは「芸に到達点はない。あるとしたら、その日その時の客と演者の間にだけ成り立つ。焼き物なら形に残るけれど、そういうものではないのです」と話し、究極を求め続けた枝雀さんを惜しんだ。
「燃焼しきったかも分らんな」
米朝さんはこう言って、弟子を見送った。


4月22日付 毎日新聞 朝刊

幸せ生む笑いに命捧げ
織田正吉

二十年以上も前になる。枝雀さんがまだ小米の時代、何かの会のあとで拙宅へ誘ったことがあった。聞けば幼い子息が、きょうは熱を出しているという。悪いときに誘ってしまった。電話を掛けて様子を聞き、安心すると、枝雀さんは隣室で寝ている私の子供たちの布団にもぐりこんで寝てしまった。
高座の床で額を打ったり、座布団から横飛びしたり、破天荒な明るさとは反対に、根は家族思いで真面目な人である。性格にある鬱の部分を自覚して「明るく機嫌よく」と自分に言い聞かせ、そう努めていたのだ。「うそでも笑っていると、それがほんとうの顔になる」とも言った。円満が羽織を着たようなあの福相は、そうして作り上げた作品なのである。
理詰めでものを考える人であった。落語のサゲを「合わせ」「ドンデン」「ヘン」「なぞ解き」に四分類し、また「緊張の緩和」を笑いの絶対的な理論と考えていた時期がある。理論のための理論ではなく、笑いの再生産に役立てるためのものだった。
若いころのSR(ショート落語)の試みから晩年近くまでの英語落語まで、落語のワクにもこだわるまいとした。新作にも意欲的で、小佐田定雄氏の「雨乞い源兵衛」「茶漬けえんま」などは枝雀の十八番である。私の新作に「恨み酒」というのがある。そのサゲを枝雀さんは変えたいと言った。
咄が生む緊張はサゲで完全に緩和されなければならない。そういう考えからのようだった。こうと思えばそれを通す一徹は、むしろほほえましいものだった。カラオケの選曲ひとつにもそれが表れた。三橋美智也以外は歌わなかった。
手帳に六十の演題を書き出していた。いつでも上演可能の演目である。落語の反復練習を「ネタを繰る」というが、ネタを繰りながら阪急梅田のコンコースの人ごみを歩く枝雀さんに出会ったことがある。歩きながらニコニコとひとりごとを言うハンチングの男を、通行の人は離れたところから見ていた。
枝雀落語の最高のファンはおそらく枝雀さん自身であっただろう。体調のよいときは「自分の落語を自分で聞くのが一番楽しい」とさえ言うのであった。自分を笑わせることによって、人がいっしょに笑う。そうして哄笑が生む幸せを分け合うことに枝雀さんは五十九年の命を捧げた。
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おだ・しょうきち
作家。1931年、神戸市生まれ。著書に「ジョークとトリック」「日本のユーモア」など。


4月24日付 毎日新聞 朝刊

桂枝雀さん
___________4月19日死去 59歳

上方落語家の桂枝雀師匠は、多くの顔を持つ人だった。死去を伝える新聞を見ても「爆笑王」「自由奔放」などと共に「神経が細かい」「うつ」といった正反対のイメージの活字が並ぶ。師匠自身、取材に対し、「ネクラの常識人」だが、「仮面もかぶり続ければ肉付きになるんですよ。」と答えている。
初めて会ったのは学芸部で芸能担当だった5年前。一門の落語家の独演会終了後のパーティーでだった。当時のイメージは、ほわーっと包んでくれるかのような高座での雰囲気がすべて。あいさつしようと思ったが、思わず立ちすくんだ。そこにはイメージと違う師匠がいた。まさに修行僧か修験者。常に落語や人生について突き詰めて考えていて、中途半端な質問は許さない空気があった。
もちろん、取材ではいつも丁寧に対応してもらったのだが、本当はどの顔なんだろうか、と戸惑ったのを覚えている。
その顔を大きく変えたのは、1973年に小米から二代目枝雀を襲名した時。小米時代の落語について、タレントの上岡龍太郎さんは師匠の著書の解説で「まさにきちっとした米朝師匠のお弟子さん」「すでに名人的な口調」と書いている。
その芸が、襲名後180度変わり、今の個性的な”枝雀落語!を完成させていく。ここまで芸風を変えることに成功した人はまずいないだろう。
この襲名直前、精神的に落ち込み、自ら「死ぬのが怖い病」を名付けている。原因は、私に分るはずもない。ただ当時は落語ブームと言われたが、実際はテレビで活躍した「落語家」によるブーム。大阪には落語専門の定席が無かったため、同じ舞台で派手な漫才と競い合う必要もあった。そんな状況が「趣味は落語」というほど落語好きの師匠を変えさせたのかもしれない。
師匠は知性的な一面は隠し、尊敬していた初代春団治のようなキャラクター重視の落語に磨きをかける。実は初代枝雀は春団治以前に活躍した”爆笑王”。襲名を機に変化を決意した気持ちが見え隠れする。
桂米朝師匠のように物語を聞かせるタイプを違い、キャラクター重視の落語家は多くのファンをつかむが、「邪道」とレッテルを張られやすい。しかし、物語を語らせても一流の枝雀師匠は見事に両立させた。そしてさらに上を目指し、落語を常に変え続けた。
ここ数年、病で落語を演じる機会は減っていたが、今秋には持ちネタ60を20日間で演じ切る「枝雀60番」を準備していた。復帰していたら、また新しい顔を見せてくれていたはず、と残念でならない。
メディア情報部 ・ 佐々本浩材


4月25日付 朝日新聞 朝刊

桂あやめの艶姿ナニワ娘
すごかった枝雀さん
    単行本 2000年1月11日 東方出版

枝雀師匠が亡くなられて一週間がたとうとしている。あらためて上方落語界にこの師匠がいたことの大きさに感じ入る。
私が入門した昭和五十七年(一九八二年)、枝雀旋風がすごい勢いで全国に巻き起こっていた。枝雀寄席が始まったのもこの年だ。素人仲間の落研の子たちも皆「すびばせんね・・・」と口調をまねたリトル枝雀になっていた。
その半面、落語評論家もどきのオジ様達には「あんなもん邪道や」などと批判的な人も多かった。私自身も落語オタク少女だったので、「枝雀ファンなんてミーハーやわ」なんてエラそうなことを言っていた。

この世界に入ってはじめて枝雀師のすごさがわかった。入門し、自分の師匠から噺を習う。古典落語は元々よく出来た噺をその時代時代の演者が練り上げ、それを今現代で舞台に掛けてウケさせてる人から直接教わることが出来るのだから、そのまま工夫せずにやっても十分面白いはずだ。逆に自分らしくやろうと思い出すと難しい。
自分でも古典を女向きにと試行錯誤して挫折して、ようやく枝雀師はすごいことやったんやな、と気がついた。落語家が落語を壊し、より落語としての可能性をひろげたのだ。
落語には弱いところがたくさんある。まず一つ、テレビには向かないということ。画面にはありとあらゆるものが次々映し出される。そこへ落語を一席、となると二十分、三十分と座布団に一人の人間が座ったままということになる。テレビで見ると退屈で、すぐチャンネルを変えられてしまう。
そのテレビを制覇したのが枝雀師だ。オーバーアクション、テンポのあるしゃべり、すべてがビジュアル系。アップで寄ったときの表情などはテレビだからこそ笑える。落語という古い戦闘機をハイテク化した枝雀号が敵地へのりこみ見事勝利をおさめたって感じだ。
もう一つ、落語は言葉の壁がある。お神楽や紙切りと違って落語は日本語がわかる人にしか通じないというもどかしさを感じる。それも師匠は「英語落語」という形ではねのけた。枝雀号はさらに改良を加え、海外まで飛んでいけるようになったのだ。
二年ほど前、心身の調子をくずされたと聞いた時も、この壁を越えたら次はどこに着地しはるのかとひそかに期待していた。人より前に進みすぎていて、この世には降りるところがなかったのかな、と思う。

わかったようなことを書きながら、師匠とお酒を飲んだことは一度しかない。まだ私が入って二、三年のこわいもの知らずなころ、天神祭の舟でご一緒した時だ。はじめてお話させてもらい舞い上がってしまった私はヘベのレケレケに酔ってしまった。師匠も上機嫌で飲んでおられたが、気がついたらほっぺたをひっつけて飲んでる私に「そない親しげにされても困るんですけど・・・」と困惑げに言われた。それ以来面目なくて酒席でも近寄れなかったが、もっともっと、お話してみたかった。
先日、九十六歳で初代春団治の舞台を生で見ていた方に話を聞いた。やはりそれから以降類を見ない面白さだったらしい。私も長生きしたらあの伝説の枝雀の舞台を生でみたんやでぇと、オーバーアクションで語りつぎたい。


4月30日付毎日新聞夕刊コラム

憂楽帳     西木 正
「超能のひと」

桂枝雀さん。
長い間、あなたの芸風が理解できませんでした。
能天気な長屋の連中、大店の旦那、どれも「その人物を演じる枝雀本人」が見えてしまう。大げさな身ぶり、表情も、優等生が無理に悪ふざけをしている。そんな印象が先に立って、話にのめり込めなかったのです。

突然の死の直後、周囲の思い出話や評伝を見聞して、なんだかわかったような気がします。いつもなにかを突き詰め、高みに挑み続けたという枝雀さんにとって、いまの芸は試行錯誤の一過程でした。それが世間に「うまい」「面白い」と評価され、いつも同じ形の笑いが期待されるのは不本意だったでしょう。「異能」を超えるものを目指す芸人魂と、時代の求めるもののギャップ。それが、枝雀さんの長い沈黙の原因ではなかったでしょうか。

少し前、電車の中でお見受けしたことがあります。夫人とご子息らしい男性にはさまれて、好々爺の顔でした。これから枯れた芸を、と楽しみにしていたのですが。どうぞ安らかに。とはいっても、あちらは小染さん、春蝶さんもご一緒で、さぞにぎやかなことでしょうね。


ZAKZAK
‐ 夕刊フジによる WWW 情報紙

http://www.zakzak.co.jp/geino/n_Mar99/nws3515.html
http://www.zakzak.co.jp/geino/n_Mar99/nws3520.html
http://www.zakzak.co.jp/geino/n_April99/nws3625.html


AERA 1999.5.3

死招いた凝り性と飽き性
落語界に「枝雀ワールド」を作り上げた異能が、自ら命を絶った。
客が満足しても自分が満足できない。完璧主義は飼い馴らせなかったのか。

オーバーと言えるほどのしぐさ、めまぐるしく変わる表情、独特の抑揚と緩急をつけた話しぶりで、上方落語の爆笑度をけた外れなまでに高めて全国に伝えた桂枝雀さん(59)が、四月十九日亡くなった。自殺を図ってから三十七日目。意識はついに戻らなかった。
「二、三回、こちらが話をするとすぐに覚えて、完璧に演じた」
師匠の桂米朝さんは、枝雀さんの入門時を振り返ってそういう。
一九七三年十月、二代目枝雀襲名を機に爆発した人気は、大阪で千四百人のホールを六日間連続で満員にさせ、東京・歌舞伎座では、落語家としての初のカーテンコールを実現させる。

笑いのツボ心得た天才

全国で年百回以上開く独演会やゲスト出演の会は、いつも満員。
「また来年も」の声に送られて訪問地を後にする姿に、笑いのツボを心得た天才との評価が高まる。
確かに笑いの天才だったが、現実の枝雀さんは練習の虫だった。
「ほかの人が百回ネタを繰る(落語のけいこをする)なら、私は、二百回する」
そういってはばからなかった。
「私らも、それなりに工夫をして演じます。それでお客さんに受けたら、ああ、これでええんや。よかったなあと満足するんですが、師匠は違うんです」
一番弟子の南光さんの言葉だ。
大阪の朝日放送の番組に、十九年ほど続く「枝雀寄席」という番組がある。枝雀さんの病気で二年前から南光さんがメーンになり、番組の収録をしていたが、昨年の夏、調子がやや上向いてきた枝雀さんが番外で出演し、「どうらんの幸助」を演じた。
南光さんは、そのときのことをこう話す。
「三十分足らずのモンを、四十分ほど語って高座を降りた。拍手鳴りやまずといった状態で、私どもは、師匠もこれで大丈夫やと思うたんですが、師匠の方は『アカン。こんなもんじゃない』」

本人には難儀な「性分」

「凝り性でダレ性(飽き性)」と自らがいう枝雀さんの性格も、その傾向に拍車をかけた。
落語会を次々と開くと、同じネタを何度もしゃべることが多い。毎回、同じようにやるのは飽きてくるというのだ。そうなると、凝り性である。ネタを繰りに繰って、違った形で客の前で演じることになる。
それに、客を喜ばせると同時に自らも楽しめないと「よし」としない性格でもあった。
新趣向のネタが客の前で受けても、自分自身が客と同じか、それ以上に楽しくないと、自分では満足できないのだ。受けても飽きるので趣向を凝らし、自分が満足しないからとやり方を変える。
端から見ればまことに贅沢な、本人にとってはまことに難儀な性分だった。
「話芸には理想の形なんかない。それやのに、最高のものを求め続けて、燃焼しきったんや」
米朝さんの推測だ。
「あの、陽気で、にこやかな高座姿は見せかけ」だったかもしれない。本来は物静かな性格だったのが、千人余の観客をいつも満足させるために、自分の気をあげ、テンションを高めて演じてきたと思えるのだ。これからもそんな姿勢を保っていけるのか。
自分で作った、そんな自分の姿に疲れたのではなかろうか。
枝雀さんはまた、休んでいる前が「5」の状態だったら、復帰後の舞台はそれ以上で登場しないと、気が済まなかったと思われる。だから休んでいるときもけいこは続けていた。そんな性分だから、例えば「3」の力で再出発して、「世間で大はやりの『老人力』がついた」としゃれることは、頭の中に全くなかったろうと思われる。
遺書はない。心当たりになるような言葉も一切残さなかった。なぜ死を選んだかは推測しかできないが、議論好きだった枝雀さんのことだ。弟子や周りの人たちの憶測に「それは違うぜ」「その線には、ちょっと近いかな」と楽しんでいるにちがいない。

編集委員 上田文世


東京の朝日新聞8/6(金)夕刊

「故枝雀さんお別れ会   大阪で13日から開催」

4月19日に亡くなった上方落語の桂枝雀さんの「お別れ会」が、13日から15日まで、大阪・桜橋のサンケイホール別室である。
枝雀さんは、同ホールで1976年から97年まで毎年、独演会を開催。その間、2度にわたって連続6日間の「枝雀18番」を成功させた。お別れ会では、同ホールでの公演ポスターや、高座姿を中心にした写真30数枚を飾り、祭壇を設ける。正午から午後6時まで開場。13日は、枝雀さんの60歳の誕生日になるはずだった。


サンケイスポーツ 1999.08.14.(土)

お別れ会にファン300人
枝雀さんありがとう

(大阪サンケイホール特設会場で)

枝雀さん、永遠に―。今年4月に亡くなった落語家、桂枝雀さん(享年59)の「お別れ会」が13日、大阪・北区のサンケイホール特設会場で開かれた。会場にはパネル写真やポスターなど、在りし日の枝雀さんの笑顔がびっしり。“爆笑王”の異名をとった天才落語家を悼んで、大阪府の横山ノック知事(67)ら約300人が訪れる中、一門筆頭の桂南光(47)らは「今日まで、ありがとうございました」と目頭を暑くした。

―南光ら勢ぞろい―

 衝撃的な死から約4ヶ月。会場には昭和51年から22年間、サンケイホールで開いてきた「桂枝雀独演会」と「英語落語」のポスター32枚や、生前、講座で落語を演じている枝雀さんのパネル写真40点を展示。テレビモニターには「枝雀寄席」(ABCテレビ)などのビデオが流されるなど、懐かしい枝雀さんの顔がいっぱい。
 会場内に設けられた祭壇の前には一番弟子の桂南光、雀々ら弟子が勢ぞろい。訪れたファンひとりひとりに、ていねいに頭を下げた。南光は「密葬という形をとらせていただいたので、ファンの方から『お別れ会を』の声が出ていた。我々の師匠だけど、お客さんの師匠でもあるので、こういった場を作ってもらい、我々としてもありがたい」と感慨深げ。
 南光自身、まだ師匠の死が信じられないようで「何か夢みたいで…。人から『あきらめなはれ』とか言われると、つい反発してしまう。」という。

パネル写真やポスター
―あの笑顔びっしり―

くしくも、この日は枝雀さんが生きていれば60歳の誕生日。「師匠にかける言葉は?」という問いには、「『今日までありがとうございました』です。これは弟子みんなも思っているはず。(枝雀さんは)やるだけのことやって逝かれたと思うので…」と言いながら、「もっと年取った師匠も見たかった」と悔しそうに話した。
 午後4時すぎには、ノック知事も訪れ、祭壇に手を合わせ、写真などを見て回った。ところが、突然、南光に「このポスター、1枚ほしい」と声を掛け、昭和56年に行われた「枝雀十八番」のポスターを指さし、「あれが一番枝雀さんらしい。額に入れて、家の玄関に飾りたいわぁ」。
 ノック知事は「枝雀さんは、古典落語の中に自分なりの創作芸を入れてつくった人。3年前の米サンフランシスコ講演の打ち合わせでお会いしたのが最後になりました」としみじみ。
 この日訪れたファンは約300人。「小米時代からのファン」という大阪市の女性(57)は、「代書」を演じる枝雀さんのビデオを見ながら「毎週『枝雀寄席』を楽しみにしてました。ビデオを見てると、悩んでいたなんて信じられません。ホンマに逝ってしもたんでしょうか」と涙を浮かべていた。
 お別れ会は14、15日も同所で、正午から午後6時まで行われる。

◆桂文福  「一度だけ、けいこをつけてもらったんですが、その時、『落語家がヒマというのは、おかしい。お百姓さんが毎日、草を刈ったり種を蒔いたりするのと一緒で、落語家はけいこするのが仕事』と言われ、感動しました。一緒にいい時代を過ごさせてもらって、感謝しています。」

■…サンケイホールでは、14日と15日の2日間、「枝雀追善・米朝一門会」を開催。米朝はこの日、「(枝雀は)暗いのが嫌いな男だから、陽気にやろうと思ってます」と話した。
 14日の一門会のトークコーナーには、桂三枝(56)が出演。平成7年の大阪府知事選挙をめぐっての発言の行き違いから、不仲が伝えられていた南光とともに司会を努める。三枝に近い関係者は、「最近は共演する機会もなかったが、これで雪解けでしょう。きっと、枝雀さんが天国から2人を結びつけたのでは…」と話していた。


1999年8月24日(火)日本経済新聞(夕刊)「演芸」コラム欄

●桂枝雀追善――米朝一門会●
あふれ出る哀惜・愛情

 生きていたら60歳の誕生日になる8月13日から併設された「お別れ会場」には、3日間で約5000人が訪れたという。会場のサンケイホール別室には祭壇が設けられ中央には、石の羅漢さんの横で可愛らしい笑みをたたえた桂枝雀さんの遺影。お参りする人におじぎする桂南光ら枝雀一門の悲しみをこらえた表情が、痛々しかった。

 4月19日の急逝以来、ファンが待ち望んでいた枝雀さんとの別れの機会。会場に並んだポスターやスナップの前で思い出に花が咲き『枝雀寄席』が流れるモニターの前では、どっと笑いの渦。「もう、いてはらへんなんてウソみたい」との声がもれていた。

 「桂枝雀追善――米朝一門会」(8月14・15日 サンケイホール)は、そんなファンと一門の哀惜の想いと愛情が溶けあった、みごとな落語会だった。米朝、ざこばは、もちろん一門総出演で、それが何よりの供養と確信し、たっぷり陽気に笑わせた約4時間。

 中入り後、舞台に枝雀一門がずらりと並び一番弟子の南光があいさつ。「弟子が言うのもなんですが、うちの師匠はすごい噺家(はなしか)でした」と感極まって叫んだ時、客席から大きな拍手がわき起こった。

 ゲストコーナーもあり、1日目は桂春団治や文枝ら、2日目は早坂暁、イーデス・ハンソン、上岡龍太郎といった豪華な顔ぶれがそろい、故人のとっておきのエピソードを披露。上岡が「百年二百年先も語り継がれるだろう桂枝雀をリアルタイムで見られた私たちは幸せです」と最後を締めくくった。

 落語がすべてだった全身落語家は、まあるい柔和な坊さんの顔の裏側に尽きない煩悩を抱え込み、ついに落語と心中してしまった。多くを語らない米朝師匠が、パンフレットのあいさつ文にやるせない寂しさを吐露していた。その死はいまだに受け入れがたいけれど、ちょうど初盆と重ねたこの追善一門会ですでに伝説の噺家なのだと実感できた。

それにしても、こんな面白い落語会に出られなくて雲の上でさぞかし枝雀さんは口惜しがっていたことだろう。それとも「先に行ってスビバせんね。」と頭をかいて苦笑していたろうか。

(編集者:やまだりよこ)