掲示板やメールで寄せられた師匠への声(99年4月23日以降)


下から投稿順・敬称略

■・・・掲示板への投稿
◆・・・メールでのご意見


■文字化けのQ太郎  投稿日:99年11月13日<土>02時37分  
枝雀と私 第2部
 Qでござる。真面目な書き込みをすると、かなり疲れます。
師匠に対する思いや思い出はたくさんあるんですが、うまくまとまりません。
この掲示板ですべて語り尽くされた様な気もします。
私の枝雀BOXの中にはチケットの半券や、行けなかったチケットが
詰まっています。一枚一枚にいろんな思い出があるんですよ。
チケット買ったけど行けずに悔しい思いをした事。
仕事先で師匠の独演会がある事を知り、時間を遣り繰りして行った事。
死ぬほど笑わせてもらった事。
見事に置き去りにされ、むかついた事。
落語芝居を見に行って、師匠の飛び散る汗と唾の直撃弾を浴びた事。
大熱演の後、足をふらつかせながら下がった事。
真横から見させてもらった時、師匠がものすごく
変な姿勢で噺しているの見た事。
南座での芝居の時、師匠に生気がなくびっくりした事。
本当にいろんな思い出が詰まっています。そしてこの箱の中に
師匠の思い出ばかりじゃなく、その時々の自分自身の思い出も
一緒に詰まっています。    師匠を知り落語を知りました。
いろんな落語会にも足を運ぶ様になり、いろんな噺家さん達の噺を聴くようにも
なりました。またその中で自分と波長の合う噺家さんとも出会えました。
言葉や言いまわし、下げの意味がわからず悩んだ事もありますが、
またそのおかげで上方史や上方文化学にも触れる事となりました。
落語を通じて私の人生は多少なりとも豊かになったと思っております。    米朝一門会での体験です。
その日は開演時間に少し遅れての到着となりました。
席が前の方であり噺の途中でもありましたので、一席終わるまで
ロビーで待つ事にして椅子に座って缶コーヒーを飲み始めた時、
目の前にどっかで見たことあるおっちゃんが座っている事に気がつきました。
小松左京氏でした。テレビで見るとすぐにわかるんだけど、目の前で見ると
わかんないんですよ。本物だろうか?単なるそっくりさんだろうか?
しばらく悩んだ末、米朝師匠のお連れさんだからこの一門会に来てるのは、
本人であるとゆう結論に達し、サインもらおかなと思ったんですが
その時の左京氏は、苦虫噛み潰したようななんともいえない顔を
しておりましたので、潔く諦めてロビーをうろうろしトイレに入りました。
気持ちよく小用をたしておりましたら、いきなり枝雀師匠が入ってきました。
顔を引きつらせたまま頭を下げましたら、笑って会釈してくれました。
 Q太郎   「師匠、いつも聞いてますんで。」
 枝雀    「さよか、おおきに。」
枝雀師匠と並んで、連れションしてしまいましたぞ!
枝雀師匠が出た後大接近の余韻に浸っておりましたら、哲学の部屋から
ウンコ済ませた左京氏が出てまいりました。
これが最高の思い出です。    だいぶん遅れましたが枝雀師匠のご冥福をお祈りいたします。
師匠、そちらでは本当になんも考えんとのんびりと過ごしてください。
いつになるかはわかりませんが、私もそちらに参ります。
またその時ご一緒に連れションできれば、と思っております

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■文字化けのQ太郎 投稿日:99年11月11日<木>21時38分 ●枝雀と私 第1部
 Qでござる。枝雀師匠の思い出です。
師匠との出会いはたまたま見た、枝雀寄席が最初です。
山本小鉄氏がゲストに出てた時ですんで、かなり昔の事です。
この回は小鉄さんとの対談コーナーしか覚えてなくて、
プロレスの話しや小鉄さんが辞書かなんか持って、体操してた
場面とタイガーマスクに関するトークの所、
枝雀  「ほんで、タイガーマスクは誰でんねん。」
小鉄  「じつは私なんですよ。」
枝雀  「んなアホな。」
たぶんこんな会話だったと思います。
その後たまに枝雀寄席を見る程度だったんですが、10年ほど前
プレイガイドにコンサートチケットを買いに行った時、壁に貼ってあった
サンケイホールでの枝雀独演会のポスターが目に入り、
いっぺん落語きいてみよかと思い、チケットを買い求め足を運んだのが、
本格的な枝雀落語体験です。

見事にはまり込んでしまいました。その後枝雀ストーカーとなり
独演会があれば、西ヘ東へ、南へ北ヘ、と追っかけておりました。
途中仕事の都合で2年ほど枝雀落語から離れたのきっかけに、
少し離れたファンとなりました。冷めてしまったとか面白くなくなった
訳ではなく、間が空いたおかげで少し冷静になれたということです。
それこそ昔は米朝師匠が言う、枝雀の客であったと思います。
何でも笑ってしまう枝雀の客。だけどそれでいちばんしんどい思いを
されたのは、枝雀師匠本人だったんでしょう。

 師匠が自殺された事はものすごいショックでした。
出張先で朝テレビをつけると、いきなり師匠の顔。
状況を理解した後、しばらく呆けてしまいました。
容体が回復されて元気な姿を見せられる事を、ずっと
祈っておりましたが、悲しい結果となりました。
 師匠に関する情報が欲しくて、検索をはじめたところ
この掲示板の存在を知りました。その時は自分で書き込みする気も
おこらず、当掲示板に寄せられる皆様方の様様な思いを
ずっと拝見させていただいておりました。

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◆中田篤:7月16日
桂枝雀師匠の落語は、ちっちゃい頃から、大好きで、枝雀師匠の落語を聞いては、大笑いしていました。
枝雀師匠の落語で大笑いしたのはいっぱいあります。
例えば、「代書屋」、「三十石」、「愛宕山」、「船弁慶」、「一人酒盛り」、「崇徳院」あといろいろありますが、
爆笑王 桂枝雀師匠は、僕は尊敬しています。
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◆ゆかり:7月15日
枝雀お師匠はんのこと、恋焦がれていました。
私、昔、中学の頃、憧れのお人が「枝雀が好きやねん。
とおっしゃってたので私も負けまいとテレビで見てたら、そのお人よりも、枝雀お師
匠はんのことのほうが好きになってしまいました。

それも、ある日梅田の阪急百貨店の前を猛スピードで下を向いてべらべら喋ってい
る男の人をみてたら、それが、 枝雀お師匠はんやったんです。なっ、なっ、なんと
です。

一生懸命なお方やなかったかなと思います。芸人さんがあれだけ熱心に努力しては
るんやと思うと、こちらも、すごく励みになって辛いときも、挫折しそうになって
も、とにかくやれる事だけはどんな努力でもしてやってみよう!という希望を与えて
くれる姿でした。

それからは、ドラマも、テレビも、枝雀お師匠はんの出ているものはほとんど見て
いました。高座には行ったことがないのですが…
いつからか、テレビに出ている姿を見るとドキドキしたものです。
なんていうこと?なんでこのお人をみたらこんな気持ちになるんやろう?と思って
おりました。切ない気持ち…

原書でアガサクリスティを読んでおられたらしいですが、
それを聞いて英語の勉強も身に入りまして、おまえなんか
大学なんかいかれへんわといろんな人から小さいうちから言われてたんですが、あの
枝雀お師匠はんのことを励みにがんばって大学に進学できたのです。

何で早う逝かはったんやろね。もう涙とまらへんわ。エーン…
枝雀お師匠はんの本を読んで、偲ばさしてもらいます。

すいません。でも誰かにこの胸のうちを、うちあけたかったんです。
はよ、立ち直ろうと思うのですが、学生時代の自分とオーバーラップしているので辛いです。
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◆竹本 賢志:99年6月11日
村松友視さんの最新エッセイ集『損得感情』に「枝雀さんの早足」
というタイトルの一節がありました。
村松友視脚本、蜷川幸雄演出、桂枝雀・浅丘ルリ子の夫婦役という
ドラマが2回ほど関西テレビで放送されたことがありました。その時
のオーストラリア・ロケでの話や、村松さんが「枝雀寄席」の対談ゲ
ストで来られ、収録後に大阪の夜の街を飲み歩いた時の枝雀さんの早
足(いらちぶり?)に呆気に取られたことなどが書かれてあります。
文末に「この原稿の最終チエックをしている時に枝雀さんの訃報を
聞いた」云々とあります。
友人から「米朝師匠の人間国宝祝賀記念特番のコメントで、枝雀さ
んは『私は米朝師匠より先に死ぬでしょう』と言うてはったなぁ。」
と言われ、ドキッとしました。私はすっかり忘れていましたが、そう
いえば、例のとぼけた口調でそんなことを言うてはったのを思い出し
ました。悪い冗談が現実になってしまった。
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■ひでみ投稿日:99年5月27日 木 15時25分 ● ラジオの追悼番組を聞いて
この間、定吉とんにラジオの追悼番組を送って頂いて、聞く事が出来ました。
米朝師匠の憔悴しきったご様子、えらいこたえました。色々な時代の小米さんから
枝雀さんへ変わっていって、やがて枝雀落語の確立。自問自答しながら、聞き手枝雀と
演者枝雀との激闘 あくなき追求 自分にたいして、過酷なほど厳しく。
SR落語そして英語落語へ。枝雀さんにしか、出来ない世界があったと、
米朝師匠もおっしゃっていましたね。
 そして、とんな人にも優しくて。すごく気を使われて。たくさんの人が、本当に いい
話を思い出を持っていて、すべての話が枝雀さんをそのまま、表していて胸をうつ話ばかりでした。本当に、いい放送でしたね。
 私自信、枝雀さんに握手して頂いた時の手の柔らかさと、暖かさ、お話させて頂いた事、もちろん落語。たくさんの思い出。やっぱり枝雀さんは、すごい方ですよね。
 この放送を聞いて、けじめをつける事が出来そうです。
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◆神戸のおっさんのツレ 5/20
はやいもので枝雀師匠が亡くなってひと月経ちましたが、
4月の終わり頃、わたしの会社の得意先でM菱重工業の方と雑談中、たまたま師匠の
死亡記事の話になりまして、そのお方が「桂枝雀と言う落語家は、高座に上がっているだ
けで何故かこちらまでニコニコしておもしろかったね」と言いますので、
わたしが「実は、わたし枝雀のファンでして、20ほど落語のテープを持っていますけど
よろしければお貸ししましょうか?」と申しましたら、
そのお方「1つ、2つおもしろい内容のものがあれば貸してください」と言いましたので、
「わかりました、明日お持ちします」と言って、次の日
<宿替え>と<うなぎや>、<青菜>と<不動坊>をお貸ししたところ、
4、5日して電話があって、「あまりにもおもしろかったので、他のも聞かせてください、
ダビングもしたいので」
と言いますので、残りのテープ全部お貸ししました。
すると、何日かしてその方から「実は、あのテープ全部ダビングさせてもらいました、
それに同じ課の者に枝雀さんの話をしたら、わたしも、わたしも、と3、4人に
言われまして・・・」と、すっかり枝雀ファンが増えてしまいました。
きょうもその方と言っていたんですが、「本当に残念ですねえ、是非生の枝雀落語を
見たかった。でもこれからもずっと枝雀落語の輪を広げていきたいですね」と。
それと、5月19日付の神戸新聞に「枝雀の原風景」と題して、
伊丹高校定時制の元教師で、恩師の前川太市さんの思いで話が載っていました。
その中に「しかし英語落語とは考えてみれば、彼にして初めてなしうる
前人未踏の発想である。・・・略、いつの日か海外の辞書に、カブキやハイカイと
並んでラクゴが登録されることも夢ではない。
彼の功績は不滅である・・と考えるのは贔屓(ひいき)の引き倒しだろうか。前田達君は
まさに桂枝雀を見事に演じきったと私はおもう。」と。
合掌。
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■定吉とん投稿日:99年5月20日 木 09時28分 ●うちの子とよく似て
縦綱さんへ まあ年がバレますが。
うちの子も私と一緒に聞いていたので、物心ついた
時から枝雀さんの落語とともに大きくなりました。
今回のことで、掲示板にメチャクチャたくさんの方の
メッセージが書かれるのを見て、「枝雀さんてエライ
人やってんなあ〜」と言っています。スゴイ人やと
わからんくらい、身近にいたんですなあ。
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■ひでみ 投稿日:99年5月19日 水 21時02分 ●九雀さんから、お返事が届きました。
私は、大好きな「代書」と「地獄八景亡者戯」を聞いて師匠を偲びたいと思います。
枝雀師匠に会いたいですね・・・。
先日、お弟子さんの九雀さんにお手紙を出しましたら、お返事を頂きましたので一部
ご紹介いたします。
「フアンの皆様には、大変申し訳のない結果となりました。その上 家族や、一門の人間のご心配までして頂き、感謝 感謝の日々です。
最近、やっと落語の稽古が出来る様になりました。
いつまでも、悲しんでいては師匠に叱られます。
師匠に一歩でも近づける様、楽しい落語を目指しますので、応援して下さい。」
お弟子さん方も、悲しみは深いと思いますが、頑張っていらっしゃいますね。
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■縦綱投稿日:99年5月19日 水 19時48分 ●若輩者ですが  
私、ただいま20才でございます
枝雀さんのファンになったのは8才の時でした
 もう一回りしたわけですね
 ちょうど一回り目にこんなことになるなんて・・・
 初めて聞いた枝雀落語は「代書屋」でした
 何回聞いても面白く
 聞けば聞くほど面白さが増してきました
 これからも枝雀落語とは付き合っていきたいです。
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■げんすけ投稿日:99年5月19日 水 16時29分●一ヶ月
早いもので、もう、一ヶ月経ちましたね。今日は初の月命日。
皆さん、御自分で所持してはる枝雀ベストを聴いて供養にかえさせていただきましょう。
僕は、そうですねー、高津の富でも聴きましょうかな。
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■ひでみ投稿日:99年5月18日 火 22時05分 ●幻の東京での枝雀師匠の定期ライブ
97年の8月2日から東京・両国のシアターXという所で毎月1回、
「枝雀の勝手気まま VoL1」という定期落語会を、始める予定になっていました。
出演/桂枝雀・・・だけ「この、落語会は枝雀自身がその時、演りたいと思う噺を好
きな数だけ、好きな時間だけ演る。演目は1席になるか、5席になるか、また2時間や
るのか2分で終わるのか、この日劇場に足を運んでみなければ・・・のライブな落
語。」とある様に
わくわくしてチケットを買って、とても楽しみに待っていました。しかし、枝雀さん
急病の為中止となり、一度も行われる事なく幻となりました。結局その日は文我さん
が、師匠の変わりに高座をなさいました。「師匠がお元気になって戻って来られるま
で、この場所はしっかり守って行きますのでもう少しお時間を下さい。」と、おっ
しゃっていました。
枝雀さんご自身も、大変楽しみになさっていたと、主催者の方にもうかがいました。
今では、そこでお弟子さんの文我さんが定期落語会をなさっています。
今日、その時のリーフレットが出て来ました。つくづく、見たかったなーと思いま
す。
CD聞いたり、ビデオ見たりするたびに、枝雀さんて偉大な方だったとあらためて思
う、今日この頃でございます。
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◆橋本 5/10 ●桂枝雀さんを偲んで (自分のHP 
http://www.forestsong.ne.jp/naoki/essays/ess_shijaku_j.html  に掲載されたエッセイ)
 1999年4月19日、桂枝雀師匠が帰天されてからもうすぐ1ヶ月です。新聞をとっていない上、テレビなどをあまり見ていなかったため、この悲しい出来事を知るのに少し時間がかかりました。入院されていることは知っていたのですが、必ず全快されると信じて疑わなかったということもあります。
 僕は、関西にいる頃から、師匠の話芸が楽しみでした。(その当時は桂小米と名乗っておられたと思いますが)。大学に入ってからも、聖飢魔Uでお馴染みのエース清水と、テレビやラジオなどから収録したカセットテープをやりとりして楽しんでいました。代書屋、不動坊、壷算、饅頭コワイ、親子酒、くしゃみ講釈、閻魔と茶漬けなどなど、二人とも殆ど完全コピーで真似ができる程になっていました。三十を過ぎてからも、CDを買ったり親友からプレゼントに貰ったりしました。船弁慶、夏の医者、鴻池の犬、崇徳院、貧乏神、首提灯、植木屋娘などなど、枝雀さんが敬愛されたという古今亭志ん生さんや、師匠の桂米朝さんのCDよりも沢山集めました。イッセー尾形さんのVTRと桂枝雀さんのCDというのが、僕と当時の親友の共通の宝でもありました。
 師匠の高座を直接見ることが出来たのは、後にも先にも一度きりでした。忘れもしない1995年1月17日、阪神大震災のあったその日、東京で高座があったのです。あの日、我々関東の住人には殆ど情報が届いておらず、どうやら朝方神戸で大きめの地震があったらしいといった程度の認識でした。おそらく、枝雀師匠がお住まいの地域にも相当な被害があったはずですが、師匠は何事もなかったかのようににこやかにしておられました。(地震のため)お弟子さんの到着が遅れているということで、「前座とトリを逆にしましょう」などと言っておられましたが、途中で到着したらしく、「到着はしたんですが、背広のままなんですね。背広のまままではちょっと具合が悪ぅございますので、いま慌ててズボンを脱いでおります」などと実況中継をして、会社帰りにフラリとやってきた我々を笑わせておられました。その日は、愛宕山や貧乏神などを披露され、いつに違わず、場内は腹の皮が捩れんばかりの大爆笑の渦と化していました。大変な日に、幸せを撒きに駆けつけられた、「この一期一会を、あだやオロソカには思っておりませんよ」という師匠の、巧く言えませんが、愛のようなエネルギーに、何も知らずに立ち寄った我々は笑いと幸福感を戴いて帰路についたのです。
 Forest Song の一連のエッセイの中には、時々師匠のことが引用されています。もっとこの世にいて欲しかったというのが正直な気持ですが、この場を借りて、敬意を表し、ご冥福をお祈りいたします。師匠を愛する方々は大勢おられますし、師匠の遺産は永く愛され続けるでしょう。インターネットにも、松本留五郎の部屋なるものがあります(風呂屋の向かいでしょうか‥)。師匠を愛する方々や興味をお持ちになった方々は、是非訪問されては如何でしょう。
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■坂本 竜太投稿日:99年5月10日 月 20時12分 ●サブロー&雀々
ずっと、どう書こうか、と思っていましたが、なんだかとても空虚な感じ。
ぽっかりと穴が開いたような気分で。でも寂しいですね。また、追悼番組
を見ていると改めて枝雀師の凄さがわかります。
だって、おもろいんですもん。ほんま。 だいぶ落ち着いてきて思い返してみると、私が落語を聞くようになって
約12年ほどでしょうか。2つだけ自慢させてください。
1つは安井金比羅宮の研究会で米朝〜枝雀のリレー三十石を観たこと。
素晴らしかったです。(仲入りで「おチリにあんぽんたん」を売ってましたが) もう一つは、私の勤務するホールでお逢いしたこと。この時は米朝師とは
写真を撮っていただいたのですが、枝雀師に声は掛けられずじまいでした。
(「ついでに枝雀さんも」と思われると申し訳無いと思い・・・)今思えば残念
でなりません。
思えば米朝師は「普通のおじやん」でしたが、あの頭に焦げ茶色の毛糸の帽子を
被り、ぼーんやりと楽屋前廊下を歩いておられた枝雀師の姿には独特のオーラが
漂っているような気がしました。今も忘れられません。 余談が長くなりました。タイトルの件、本日の昼のMBSラジオで二人が出演、
枝雀師のはなしになっていました。太平サブロー氏が「車の中でテープを聞いて
いるが、『洗濯機の(中)マクラ』が最高におもろい!ボタンだけポン!と押し
たら「わっかりましたっ!」と洗濯機が動き出すとこが最高!」と言ってました。
関西芸人にとってもアイドルなのでしょう。また、雀々師は、代書をやれやぁ〜
と言われていたのに、稽古してもらわなくて残念と言っていました。また、枝雀
師は談志師と落語談義をしたかったのに、ついぞ出来ず、悔いていた、という
エピソードも紹介されていました。(この辺はまたまとめて書きますね) 今日はなんだかだらだらと書いてしまいました。今更ながら、亡くなられた事が
信じられない、そんな今日この頃です。ではまた。
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◆藤井一人 5/2
私は、小米時代に千日劇場で「お笑いトンチ袋」に出演されていたころからの師匠
のファンで、吾妻ひな子師匠との「バチョンといこう」を楽しみに聞いていた、オー
ルドファンです。 枝雀を襲名されてからは、北御堂で演られていた「枝雀の会」に
毎回足を運び、テレビの「枝雀寄席」も欠かさず見ておりました。 また、ニュー
ヨークに駐在していたとき、師匠が公演に来られたときも、真っ先に駆けつけまし
た。(親子酒を日本語で、愛宕山を英語で演られました。)

 実のところ、英語落語を始められてからの師匠の落語には、「何か違うんちゃう
?」との思いが強くなり、ここ数年は以前に録音したもを繰り返し聞くだけで、落語
会も、「枝雀寄席」もまったく見ていませんでした。 不謹慎にも「昔、枝雀という
めちゃくちゃ面白い落語家がおったんやけどな〜」などと友人に話してたりしていま
した。 これは単に自分の受け取り方の違いだけだったのかもしれませんが、今回の
ことで、「師匠も悩んではったんやろか?」と思われ、大変なショックを受けまし
た。 あの、「代書屋」の留五郎にも、「植木屋娘」の幸右衛門にも、そして八五郎
や喜ィコ達にももう二度と会えないんですから。
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■たけし投稿日:99年4月30日金18時35分●枝雀師匠と私
初めまして
とりとめのない書き込みになってしまいますが・・・・
私が初めて枝雀師匠の存在を知ったのは、中学生のころ日曜の昼に放送されていた
「笑い転げてたっぷり枝雀」でした。
もともとは当時、昼間放送されていたアニメをみようとTVをつけてたのですが、
偶然チャンネルをあわせ、その後毎週の楽しみになっていました。
実際に寄席を見に行くということは無かったのですが、
TVでは(放送に気づけば)チェックしてました。
私は落語ファンとはいえないのでしょうが、
そんな中で、枝雀師匠だけは特別な存在だったと言えると思います。
結局、残念な形で実際に寄席を楽しむ機会は失われてしまいました。
新聞のチケットの宣伝を見つける度に、「一度行ってみようかな」
と思っていたので、とても残念です。
思いつくまま、長々とまとまらない文章を書いてしまい、失礼しました。
桂 枝雀師匠のご冥福をお祈りいたします
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◆添田秀樹 4/30
やっと筆を執る心境になりました。急逝の知らせを知ったときから相当なショックで、正直何をする気力も沸きませんでした。枝雀師匠の生のお声を聴くことは、もう永久にあり得ませんが、私の心の中、胸の中では、いつでも枝雀師匠のあの語り口、あの身振り、あの高座運びが生き生きと息づいています。恐らく天国でも、多くの仏様たちを爆笑の渦に巻き込んでいることでしょう。お時間があれば、師匠のご家族にお悔やみをお伝えください。枝雀師匠のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 =======================================
◆泉谷勝 4/30
初めての投稿です。今回の枝雀さんの訃報に接し、「桂枝雀」で検索を
かけてこのHPを知りました。
上方落語の大きな火が一つ消えてしまい残念でなりません。
ここ10数年浜松、東京と住んでいることで上方落語に接する機会が
殆どなくなってしまい、枝雀さんが新たにどういうネタを仕込まれた
のかわからないのですが、あの大ネタ「たちぎれ線香」は演じられた
のでしょうか。実は枝雀さんは自著の中で「もし私が落語から離れ
そうになったら、『おい、まだ[たちぎれ]が残ってるやないか』と
言って引き留めてください。必ず戻ってきますから」とおっしゃって
いました。もしもまだ仕込まれていなかったとしたら、志半ばで
逝かれてしまったことになってしまいました。もういくら先の言葉を
言っても枝雀さんは戻ってこない・・・。

師匠の自分より先に旅立たれてしまった米朝さんの無念さを思うと
胸が痛みます。

心よりご冥福を祈ります。
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◆ 足達能紹 4/26
小生は、山陰の片田舎に居住する枝雀師匠とは同世代の者です。先日、朝日放送の追悼番組で師匠の才気あふれる落語を見せていただき、大変感動いたしました。枝雀師匠は、どちらかというとNHKのドラマで見ることが多く、落語はほとんど初めてでございました。小生は、長年銀行に勤めておりましたが、風貌が非常に枝雀さんによく似ており、幾度となく、間違えられておりました。梅田でも、声をかけられたこともありましたが、このようなことから、高台を聞く機会はございませんでしたが、大変親しみを感じていたところでございます。 追悼番組で枝雀さんの舞台を拝見して、何故大阪に出たときに行かなかったか、と悔やみました。今後は、もう二度とお目に掛かることは出来ません。せめて、ビデオででも、お目に掛かることが出来たらと思うものです。
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■鳥塚 投稿日:99年4月25日 日 22時53分 ●うつ病との交通事故
本当に残念です。ご家族の皆様にお悔やみを申し上げます。師匠のうつ病は、まあるくまあるくの本で6年前くらいに知りました。再発のあるこの病気は師匠の前に立ちはだかり命をうばってしまいました。うつ病現代では治る病といわれていますが、師匠の症状は激烈だったのでしょうか・・・家族の方の苦労もものすごいものだったと思います。天才の師匠ゆえに師匠も大きく
揺れ動かされたのでしょうか・・落語は業の世界を描きます。普段の生活の師匠にはまじめすぎる自分と業に生きる自分がぶつかり合いまた、演者と聞手も内包し戦ったのだと思います。
しゃれでやってしまったと思わせるくらい日々師匠も揺れていたのでしょう。うつ病という病気が枝雀師匠を襲った事を医学のプロからもコメントして欲しいと思う今です。本当にご家族の皆さん、一門の皆さんにお悔やみを申し上げます。
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■常盤家とまと投稿日:99年4月25日 日 22時24分●まってておくんなはれ!
高校生の時ほんまに落語家になりたかった。そやけど女やさかいなれへんて・・
素人名人会で小文枝師匠に言われたわ、かわいいさかいあかんのやて・・
師匠もうすぐそっち行くし、弟子にしてください。
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◆樂 慎次郎 4/25
二代目桂枝雀と出会ったのは小学校3年の頃、日本的なものに興味を持っていた私はどっぷり落語にはまっていった。お年玉でテープを買い、母にねだって独演会へも行った。枝雀を追っかけた。「ひるまま」の出囃子に心弾ませ、当時から演じていた落語も枝雀のまねだった。私の落語事始めは間違いなく枝雀だった。以後約20年、枝雀との出 会いがその後の私の人生を決定づけたといってもいい。昨日、枝雀の「猫の忠信」を聞いた。うまい。おもしろい。しかし、この寂しさは何なのだろうか。ビデオは当分見る気がしない。つらい。  仕事の都合で大阪を離れ、鹿児島へと移り住むこととなった私にとっての枝雀最後の高座は「平成紅梅亭」での「宿替え」だった。枝雀十八番中の十八番が聞き納めとなった。二代目桂枝雀。爆笑王・笑いの菩薩の冥福を祈る。あの世で枝雀の落語を再び聞くことを楽しみに。  枝雀師匠、おおきにありがとう。師匠の落語はほんまにおもろかつたわ。
                                    合掌
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◆市原千博 4/25
枝雀は大きな噺家だった

 私は本来上方よりも江戸落語の方に親しんでいました。11才違う弟もその影
響を受けてか、小学生の時からいっぱしの落語通を気取っていました。その弟が
高校生くらいの時に枝雀にのめり込み、しょっちゅう口まねを聞かされるように
なりました。自分で聞いてみたら実に面白いのです。面白いのですが、それまで
思っていた上方落語とは全く異質の感じられました。上方だけではない、江戸落
語にもないインテリジェンスを感じたのです。これはとんでもない噺家が出たと
思いました。その後こちらに就職することとなって最もうれしかったことの一つ
は、枝雀の落語の放送がたっぷりと聞けることでした。ちょうどテレビの「枝雀
寄席」も始まり、彼の全盛期でした。そして、私の好きな枝雀の話はこのころの
ものでした。「代書屋」、「雨乞源兵衛」、「寝床」、「茶漬けえんま」、「住
吉駕籠」、「高津の富」等々数え切れないほどの傑作がありました。私はこの段
階で枝雀落語は高度に完成されたと思います。しかし、彼はさらに面白いものを
求めていたようです。全く新しい笑いの質を作ることに匹敵するような改革がそ
う度々できるものではありません。その後上記のネタをさらに変えようとしてい
ましたが、やはり最盛期の枝雀に感じる以上の面白さは感じられませんでした。
私は枝雀が最盛を極めた段階でで怠惰に陥ってくれたらと今でも思います。全く
同じ話を何度聞いても、話の内容を逐一再現できるほどよく知っていても面白い
のですから。あるいは、あの段階で「落語」という芸から去るべきだったかもし
れません。無理な努力を重ねざるを得ないところに悲劇があったのでしょう。彼
の持ちネタの一つだった「あたま山」の主人公のように、自らの頭にできた池に
身を投げることになってしまったのかもしれません。
 他に何人も「同じ時代に生まれて良かった」と感じさせる落語家もいますが、
枝雀は他の落語家と違った意味で、最も面白い時代の落語をこの耳で聞くことが
でき、ごく短い間ではあっても言葉を交わすことができて本当に幸せだったと思
います。枝雀が作った新しい落語は私のささやかなコレクションの中で異彩を放
つことでしょう。
合掌。

PS
枝雀に関する自慢
何年か前の「枝雀18番」のパンフレットに使われた師匠の中学時代の写真は、
私が知人から入手した生写真を複写してオレンジ寄席の時にお目にかかった際
(べかこ師もご一緒でした)、師匠に差し上げたものです。いまこのネガを探し
ています。
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■ひでみ投稿日:99年4月25日 日 14時57分 ●くやみを見て・・・・
追悼番組の感想ありがとうございました。
"くやみ"のVTRを、久しぶりに見ました。
複雑でした・・・・なんと申し上げて良いのやら。
楽しくて、面白くて大笑いしながら、でも涙がとまりません。
残念でたまりません。枝雀師匠の高座が終わって、
舞台のそでに引っ込まれる時のお顔を偶然拝見した事が
あるのですが、ものすごく厳しい表情でした。突き詰めて
いらっしゃる様な、戦っていらしたのかも知れませんね。
聞き手枝雀と演者枝雀とが。一門の方達の気持ちを考えると
言葉が見つかりません。
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◆能津 努
追悼番組見ました。枝雀さんの噺はやっぱりおもしろくて、大笑いしてしまいました。
 枝雀さんの若い頃の写真とか、ざこばさんや米朝さんの話を聞いていると、久しく泣
いたこ
ともなかったのに、涙が流れてきました。枝雀さん、そんなにしんどかったんかと思う
と、涙
が止まりませんでした。そんなにしんどい思いして、人を笑わせなあかんかったってい
う凄ま
じい事に、そういう重荷を背負っておられた事に愕然としています。
 「お疲れ様でした」と周りの人達の言っている意味がようやく解りました。
 心からご冥福をお祈りします。
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◆ 神戸のおっさんのツレ 4/24
追悼番組見ておりましたら・・・ 「皆さん、ありがたいことでっけど、いつまでも悲しんどったら、いけまへん。 はやいとこ、アハ・アハ・アハと笑うて、いつもどうりにやっとくなはれ。」 「わたいは、みなさんがビデオやCD、カセットのスイッチを押してもろたらいつでも、どこ でも参上いたしますがな。」 と、いうよーな声が聞こえて来そーに思うのは、わたくしだけでしょーか?
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■げんすけ 投稿日:99年4月24日 土 17時36分
● Re:誰か追悼番組の感想を教えて下さい。 追悼番組は、いかがでしたか。・・・の投稿に答えて
誰か、教えて下さい。僕の場合、平成7年度版の「胴乱の幸助」はビデオにとって繰り替えしみていたのですが、それでもやっぱり可笑しかった。枝雀独演会、落語ライブの「胴乱の幸助」も鑑賞してますが、聴く度に違ったイメージをうけこれが枝雀落語と驚かされます。
昭和59年度版の「宿替え」もおなじく。枝雀さんの当時については僕は落語を聴くほどには幼く、「浪花の源蔵捕物帖」くらいでしか知らなかったのですが、この機会に知ることができて嬉しいやら悲しいやら。でも、落語ライブ版「宿替え」ともまた違ってましたね。おもしろかった。
独演会版「宿替え」を聴いてはる方がいらしたら、その感想を聞かせて下さい。「独演会」買いそびれてるうちに東芝EMIが製造をやめてしまったので。最後のざこばさん、米朝師匠のコメントは悲しくて聴いてられませんでした。
ホントに一門の方々にはなんと言葉をかけてよいのやら・・・枝雀さんの人にふれられた人はみんなそれだけの幸せをもらいましたよね。おおきに、枝雀さん。
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■定吉投稿日:99年4月24日 土 17時19分
● Re:誰か追悼番組の感想を教えて下さい。 追悼番組は、いかがでしたか・・の投稿に答えて
ええ内容でした・・・。うまいことまとまってるし、
枝雀さんのこと、みんなようわかった作ったはるのが
わかります。一言でいうとフクザツナキモチ・・・。
落語聞いてるときは、まじ大笑い!!「あ、生きてる」って
思ったん。「どうらんの幸助」は昔よりずいぶん表現が
細かく詳しくなっていました。それにちょっと年いかはった
なあ〜と思ったり。私、5年くらいは間あいてるもんやさかい。あ〜楽しかった!!と思ってビデオを切ったとたん、
ボタボターっと涙がとまらへん。そいでもね、やっぱり心の中に生きたはるよ!
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■KISS投稿日:99年4月24日 土 08時02分●残念で・・・
わらは こんちょう たかつが やしろにさんけいをなし
まえなる はくしゅ ばい さてん に やすろう
はるか さいほうを ながむれば むつのかぶとのいただきより
どふう はげしゅうして しょうしゃがんにゅうす・・・何をいってるのかわからなく 何回も聞き返したの 思い出します
ご冥福をいのります。。(-人-)
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■ぴーころ投稿日:99年4月23日 金 02時16分 ●師匠、お疲れさまでした
今でも信じられません、今にもブラウン管から飛び出してきそうな気がします。
枝雀さんを、生で見たのは、二回しかないんですが、
舞台の袖から出てこられたとき、思ったより、小柄な人だな思いました。
でも、話が始まったとたんに、すごく大きく見えて、グイグイ引き込まれていったのを覚えています。 
本当にさびしい、さびしいです
 今想えば、あの爆笑王といわれた裏では、常に思い悩み、私たちを喜ばすために苦労して
おられたのだと、思います。
だからこそ、あれほど、型破りな芸風を完成させ、さらには英語落語をひっさげて、
海外にまで、進出されたのだと思います。
「でも、なんで死んだんや、なんで死んでもたんや、落語なんかせんでもええ、人も笑わさんでもええ、ただ元気になってくれたらよかったのに・・・」
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■C@w投稿日:99年4月23日 金 00時51分 ●目頭が熱く・・・もう枝雀寄席で師匠の元気な姿が見れ無いなんて・・・
それに枝雀師匠の楽しい落語のテープを聴いて居るはずなのに
面白い筈なのに!!!面白い筈なのに・・・
何故か目頭が熱くなり目から涙が・・・(泣)